昭和56年2月23日  月例祭

 歴史上初めての日本入をなさいました。初めて日本においでになられました。ちょうどニュースを見せて頂いておりましたら、それこそ春雨降りしきる中を、飛行機からタラップから降りておられる所が、写真に出ておりました。
 まず、大地にひれ伏して、大地への接吻。それから、多くの、多くのと言いたいところでしたけれども、今日はお湿りのために、お迎えが大変少なかった、ですが、それでも、それこそ、ローマ法王といえば、まあ、キリスト教の、カトリックですね。私どもの言葉でいうと、生神様のようなお方なのでございましょう。
 私は、まあ、それを見せて頂きながら、思うたんですけれども、ほんとに金光様のご信心は有り難いな、と。ほんと、どこまでも金光教の信心は、天地がバックである。ね。いうならば、天地との調和を説きますね、キリスト教辺りでも。けれども、もう一つ向こうに、あいよかけよの世界。神様と氏子とのあいよかけよの世界。もう一つ向こうに、合楽の世界、神様と氏子とが交流する世界。そこから生みなされるおかげ。それが合楽理念なんです。
 合楽理念を行ずるところから、そういうおかげが、いつも天地がバックである。こんなに気強い、心強い、有難い事はないと思います。
 これは泉尾の教会で、泉尾の教会には、合楽とおんなじで、合楽独特のいうなら言葉、字引にもないような言葉がございますが、泉尾にもやっぱり、それが、私どもが例えば、お書物を読ませて頂いておっても、分からないようなところがある。
 中に、台人ということを使われますね。例えば、台というのは土台の台、ムを書いて口ですね。「家の台人になれ」と。家の土台になれと。「信者の皆さんは教会の台になれ」と。まあ、私どもは、天地金乃神様、天地の、いうならば、親神様が、この世におかげを下さろうとする、その働きの台に、私どもはならせて頂かなければなりません。
 「口に真を語りつつ、心に真のなきこと」とおおせられる。金光教の信心は、これでは台人になりません。
 今日、私は、ある方のお取次をさせて頂いて、熱心にお参りもなさる、熱心に人へお話もしてもいかれる、お導きもなさる。「ところが不思議に、私がお導きした人達は助からない」と言われる。
 私どもも、やっぱ、そうでしたね。もう、それこそ、がむしゃらに教会に連れてお参りをする。そして先生のお話を聞いてもらうんだけれども、助からない。長く続かない。私は思うのに、そういう時代に、私がお話をした人が、皆な助かり、そして、私がお導きした人が、皆なよい信者に育っていっておったら、今日の私は生まれていないと思うんです。もう、その時点で、信心を、もうこれでよいように思うことになるんじゃないでしょうか、ねえ。
 今日も私は、その方のお取次をさせて頂いておったら、台と言う字をね、カタカナのムを書いて、左横の下に、口と言う字を頂くんです。ずれておる。下に来た時に初めて、台と読むのである。ムというのは、私どもが、いわゆる、我情我欲をなくすというか、空しゅうなるというか、ね。「私が導いたあの人が助かった」なんていうようなものが鼻先にぶら下がっておる間は、おかげになりません。本当に、自他共におかげになりません。
 自分というものを空しゅうして、「自分がそういう御用に使われた、ということが有り難い」という、その有り難いということが、一段一段、有り難うなっていかなきゃあいかん。お導きした人が助かる、助かる事によって、自分も助かるでなきゃあいかんのに、お導きした人が助かりどもすると、「あの人は、あんた、あたしが導いたっじゃから」といったようなことではね、本当の台にはならないと言う事です。
 ね、だから結局、いうならばおかげを受けるということは、ね、お道の信心は祈念祈祷でたすかるのではない。話を聞いて助かる。それでも一心を立てれば和賀心に神がござるからおかげになるのじゃと仰せられる。
 今日もお供えの中に、あの大盛の上にいっぱい、こう、赤い物がさがっとったんです。あれは千羽鶴なんです。こないだ村内の方が、もうこれは医者に見放されて、家族の方達ももうあきらめ手おられた中に、それを聞かれたこの久保山さんが、毎日それからお届けをなさいます、その方の。向こうは知ってや知らずや分らんのだけれども、まあご本人はその、御神米を差し上げられたんですから分っておられる。ただ助かりたいの一心ですねえ。それこそ金光様金光様で、あの千羽鶴を折られた。そしてきっちり千羽折り上げてしまって、  までかけて、そしてあんなに美しゅう仕上げられた。もうそれこそ医者がたまがるようにおかげを頂いて、先日退院のおかげを頂いて、今日私が下がった後だったそうですけども、あの千羽鶴を持って、お礼参拝があったということです。
 ね、一生懸命金光様金光様で折り上げた、その一念、一心、それは神様のおかげということもあるけれども、金光様と唱えてからということもあるけれども、ね、和賀心に神がござるから一心をたてればおかげになるのじゃと言う。それは、そこの石の地蔵さんでも、祠でもよい、一心を立てれば奇跡が起こるといったような例は、昔からたくさん聞く話です。一心が・・・。もちろん一心を立てなければなりません。
 けれども、金光様の御信心は、どこまでも話を聞いて助かる、その話は、天地の大恩であり、天地のご恩徳である。天地の大恩が分かり、天地の道理が分かり、その大恩に報い奉る神恩報謝の生活が出来るようになり、道理が分かり、道理に合うた生き方をさせて頂くようになるというところから、天地との調和が取れるようになり、交流、いうなら、合楽し合える世界までが開けてくるというのが、お道の信心。
 だから、一心はいらん、拝むことはいらんということじゃない。祈念もいりゃあ、祈祷もいるけれども、ね、一番大切なのは、話を聞いて自分の心が、私どもが、昔からよく言われるんですね。とにかく、願いにも筋道が立たなければいけない。
うん、筋道が立たなきゃいけない。神様が喜んで下さるような願いでなからなきゃいけない。世界国家、天下国家のことを祈るとか、願うとか、とこう申します。もう神様がそれを喜びなさらんはずはない。ね。けれども、まあ、けなげなことだと、喜びなさるだろうけれども、そういう祈りとか、願いの内容をいつも検討していかなきゃならない。
 お願いをする。おかげにならん。例えて言うと、ね、これは、昔の御理解にあったんですけども、子供の時に、お芝居を見に、ちゃんちゃんばらばらを見て来て、その刀がね、人を切ったり、その切りまくる。だから、そういう芝居の真似事がしたい。だから親にねだって刀を買うてくれと、こう、言う訳です。だから、なら親はせがまれて、ならおもちゃの刀を買うてやるけれども、それがほんとに人がずかずか切れるような、いうなら真剣を親が与えるだろうか。ね、それを与えたら持たせたら、それこそ、身の守り、家の守りにでもするような、心の状態が出来てからならば、そのいうなら真剣も買うてやろうけれども、それを見よって、人を傷つけ、自分も傷つくようなために、神様は、親は、与えはしません。あなた方が願っておる、その願いが成就せんならですね、そういうような願いをしておるようなことはないだろうか。
 例えば、子供が五紋とか六紋とかの小さい靴を履きます。それに大人が履くような、十紋の、十一紋の靴を買うてくれと言うてせがんでも、親は買うてはやらんでしょうが。いや、あげな大きな靴がよかと言うても、親は買うてはやりません。あんたこれがちょうどよかということになるのですけれども、わかりませんと、五紋か六紋の靴でよいのに、十紋の靴を欲しがるような願いをしておるようなことはないだろうか。
 その願いが成就したあかつきに、果たして自分がほんとに幸せになれるほどの、いわゆる土台が出来ておるだろうかということであります。
 ね、台。私は今日それを頂いてね、はあ、「だいじん」と言われたな。「だいにんになれ」と言われるね。泉尾の先生が。もう家の台人になれ、教会の台人になれ、と。
 いわゆる、土台になれ、ということは、内容がそれだけ充実したこと。言うておること、行うておることが、一致するようなことになって始めて、台になるのである。それがこんなに違うておる間に、いくら家庭のことを願っても、家庭はおかげにならん。というようなことを、今日は私、感じました。
 今朝の御理解の中にも、申しましたことでしたけれども、昨日、もりべの高山さん、総代さん、お夢を頂かれた、そのお夢が、もう見事なお風呂がそこにあって、もうそこまで透き通るように、立派なお湯が、しかもそれからもうこんこんと、こう、あの、勿体無いようにこぼれておる。沸きこぼれておる。そこで、どうしたことかと私は洗面器に、吐いたかなんか分からないけれども、とにかく汚い物を、お湯の中にぱっとこう、落としてしもた。あら、こりゃどうしようかと思うたら、どんどん、この、こぼれておりますからね、そこまで行きつかん先に、ざあっとその洗い流してしもうたところを頂いた。よかったと、濁らなかった、そこまではいかなかった。汚い物を入れても、みんな外へ出てしもうたというお知らせであった。
 そしたら、これをたどんで渡してあるんだということを誰かが言われる。「ああ、これはたどんで沸いとるとじゃな、勿体無いな」と思うたら、「いや、勿体無いことはない、なんぼでも水は湧いておるのであり、なんぼでも次から次へと湧いておるのであるから、勿体無いことはない」。どんなに汚い物を入れても、中に沈まない。押し流してしまう。そしたらまた誰かの声がね、「このたどんももう燃え尽きる」。
 燃え尽きたら、後はどうしようかと思うたら、「後は薪で焚く」というお知らせであった。どういうことだと思うでしょう。私は、これはもうそのまま合楽のことと思うた。いうなら合楽ではそれこそもうこぼれるようにお湯が沸いておるような状態ではなかろうか。間違うたことを言うてもしても、汚い物を持ってきても、それが中に沈むどころではなくて、それを押し流してしまうような勢いの状態が、今の合楽の状態である。そのたどんとても燃え尽きることがある。
 「色は黒てもたどんのよでも、雪のだるまの目に留まる」といったような御理解を頂いたことがあります。私の一番修行中に頂いた御理解なんです。いうならば、苦労が難儀が、その修行が神様の(認めて?)下さるところともなり、人が助かるというところにもなり、今日の合楽がこのようにして繁盛の一途を辿らせて頂くというようなおかげのもとになってきた。
 ところがそのたどんとてもねえ、燃え尽きることがある、だから燃え尽きても、心配はいらん。後は薪で焚くから、とこう、高山さんは頂いておられる。そこでその薪である。果たしてお互いがその薪を持っておるか。私はここで言われる薪というのは、竹内先生と話したことでしたけれど、金光教では、真とか真心とかと言われるけれど、とにかく合楽理念そのものが真心であり、それを行ずることが真をもって行ずることなんだというふうに、今日は二人で話し合ったことでした。
 確かにそうばい。合楽理念を行ずることが、真をぎょうじていることなんだ。いうなら、薪で、というのは、焚き物という意味ではなくて、まきというのは、「真の心」と頂かなければならない。真心一つでこれからは、みんなが助からねばならない。その真、真心を、今のうちにまだ、いうなら燃え尽きていないたどんが、おかげで湧きこ「何々は合楽理念をもってするほかはない」という、思うほどの、いうならば実力を作っておかなければならない。いつでも、まきが、真心が、出せれる信心を頂いとかなければならない、ということだと思うんです。
 一心を出せばわが心に神がござるからもうそれこそ、医者がたまがるように、いやもう、医者が(たまがら……?)不思議がるように、いわば、この世におさらばしなければならないほどしの人が、おかげを頂いて助かった。折鶴一羽一羽を、真心込めて、「金光様、金光様」で、念じながら、千羽折りためた時に、言わば退院のお許しが出たと。帰ってきてから、しかしこんなものを金光様にお供えしても……、これは高槻の地蔵さんというところでは、癌に効くお地蔵様だそうですが、たくさんお参りがあるそうです。人間の悩み、その苦しいことを、願えば一つだけは必ずきいてやるというそのキャッチフレーズが素晴らしい。だからみんなが我も我もとお参りをするわけです。そしていわゆる千羽鶴をお供えするとか、いうなら願をかけて帰ってくるんじゃないでしょうか。 私も一度あちらに参りましたことが、参るというか、連れて行ってもらったことがあります、菊栄会の方達から。もう、それこそ、たくさんの千羽鶴が下げてございます。だからそれを知っておられる方だったんでしょう。だからこれは、高塚の地蔵さんになっと持って行こうかと、言うておられるのを久保山さんが聞かれて、「そんなことはないですよ、あなたが真心込めて、『金光様、金光様』で折り上げられたこの千羽鶴ですから、金光様へ持ってお供えされたら、もう、届きますよ」とまあ、言われたので、今日おそらく持ってみえたんじゃないかと思うんです。
 人の一念というものは、素晴らしいですね。金光様のおかげもさることながら、自らの心の中に神がござるから、一心を立てればおかげになるという、この一心も、やはり出さなければなりません。
 昨日、一昨日、先一昨日でしたでしょうか、今、毎朝、朝の御祈念に、久保山さんのお導きで、ずい分長く参って来られる方があるが、この寒修行からも親子で、もう一生懸命で参られる。御理解が身に付いてきた。なるほど祈念祈祷で助かるのじゃない。頼んでおかげを頂くのじゃなくて、自分自身の心が助かっていく状態が楽しくなってきた。先月も帰ってから、あの祈念詞を一生懸命上げながら、神様の前で御祈念をしよった。そしたらいつのまにか眠ってしまった。そしたらお夢の中で、親先生が御神前に向かって一生懸命御祈念をなさっておられる。そしたら急にそのくりっとこちらの方を向かれて、ねえ、「そういうことでは、神に一心は届かん」と言うて、もう、大きな声で起こされて、びっくりしたというお届けがあった。どうでしょうか。眠り半分じゃ一心じゃないことが分かりますですね。神様へ向こうたら、それこそ「後ろから槍で突かれるような事があっても、振り向いてはならん」と仰せられるほどしのものです、一心とは。
 私は昔、そのことを頂いたんですけど、レールの中で御祈念をしておるつもりでと、おっしゃっておる。いつ汽車がゴーッと来るやら分からんです。ね。もうそれこそ神様と、こうやって御祈念をさせて頂いて、いわゆる、交流しだしたら、とても眠気だんじゃない。毎日一時間半、少なくとも一時間半は座ります。ここで、御神前で一時間、控えで三十分間。けれども、神様との、その、交流の楽しさということは、眠気なんかきません。どんなに前の晩寝とらんでも。いわば私の願いは神様が聞き届けとって下さると、こう思うんです。それこそ朝早く起きとられますから、やっぱり眠気もくるでしょう。けども神様そのように言うて、一心を教えられたということでございます。
 ね、だから、一心を立てて御祈念をするということも、大切。けれども、さらに大切なことは、ね、いよいよ合楽理念に基づく生き方を体得すること。そして、日々実験実証させて頂くこと。そしてもう今の内、まだたどんが燃え尽きない内に、こんこんと、言うならば、ひとりでにお湯が沸いてこぼれておるような時にです、合楽理念の実験実証をさせてもらい、家の土台とも教会の土台とも、または皆さんが、合楽次元活動に参画するということは、このいうなら和賀心時代を、十三日を、世界の国々隅々にまで広げていきたい。とてもとてもキリスト教なんかでたすかることではない。ね、いうならば、キリスト教のためには、天地がバックではない。いうならば、これを南米布教に見れば分かるように、確かに凄まじいまでの天地がバックでの、今、末永先生が南米布教に神様の働きを、私共が、聞いて感じないわけにはいけん。ね、その、天地をバックにしての、例えば尊い信心であっても、私共の信心のその力というものが、だいの力というものが、ね、やはり十人助けれる、百人助けれる、千人も万人も助けられる力。ね、力なしに天下国家のことを祈っても、いけません。祈ってならんじゃない、祈らせて頂くなら、その内容にふさわしい信心にならせて下さいという願いがなからなければならない。ただ願っておけばよいということではいけない。そいて、いうならば、むなしゅうということは、我情を取り、我欲を取らせてもらい、天地の大恩を分からせてもらい、ね、神の大恩を知らぬから、互い違いになると仰せられるのですから、神の大恩を知れば、子孫も続き、身代もでき、一年勝り代勝りのおかげが受けられると言うておられるのですから、ね、神のおかげをどういう中からでも、頂かなきゃいけない。二、三日前に頂きました、今の教主様のお歌の中に、「これほどのことなるからによからんと心許すにあやまちおこる」というお歌がありますが、そのこれくらいのこと、というたらもうこれは横着なことになりますから、おかげにならんけれども、これくらいなことの中にとても、神様のおかげを頂かなければできることではないんだと言うて、ある方が、夫婦喧嘩しながら、叩きあいながら、「金光様」と唱えて叩きあいをしたとこう、ね、夫婦喧嘩の中にも神様が生き生きと働いて下さっている、ね、そして段々そこが分からせて頂くに従って、喧嘩ではない、拝み合いの夫婦の生活が、段々できてくるようになっていかなければならない。というように、どういう中にも神様のおかげを分からせてもらえる、神のおかげを知らぬから、互い違いになる。
 私共、神様のおかげ、ほんとに今日、今晩このようにして、お参りができたということなんかも、たいへんな神様のおかげなんです。ね、そのおかげをもっともっと深く強く分からすために、それこそ、家の代人にも教会の代人にも、天地金乃神様の、言うならば大きな代人にもならせて頂こうというような願いのもとにです、天地とのいうならば調和、そして交流の世界を目指させてもろうていくのが、合楽理念に基づく信心であり、もう、生き方、なんであります。
 日々を、そういう実験実証をさせて頂きながら、ほんとに、さっきまで降っておったおしめりが、ね、さあ、何かと言ったら、もうほんとに、もう、うそのように、晴れ上がったというくらいなおかげは、頂きたいものですね。どうぞ。